2014年御翼10月号その3

あふれるほどの愛に気づいて ―― 森住(もりずみ)ゆき

 

 森住ゆきさんは、和紙をつかったちぎり絵で、信仰を表わすような作品を作っている。森住さんは、夫との出会いがきっかけで信仰を持った。かつて神は別の文化のものだと思っていたが、後に夫となる人は「神を信じている」と言う。誘われて教会に行ってみると、聖書の言葉、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43・4)と出会った。自分のことを全部知っている方が、「高価で尊い」と言ってくださっていることにゆきさんは驚く。自分は心の中で、人には言えないような事を想像したり、願ったり、自分さえよければ、そして、それが分からなければ、快適で都合の良い生き方をして行きたいと思っているような人間である。それを全て知った上で、高価で尊いと言ってくれる存在があったら、素晴らしいなと思った。
 最初はイエスが分からなかったという。自分を善良な人とは思わなかったが、神の前にひれ伏して赦しを乞わなければならないほどの罪人だという話には、何か言いがかりをつけられているように感じた。救われたい、という気持ちもなかったから、救い主のことは分からなかったのだ。
 そんなゆきさんも、聖書のことばによって照らし出された、自分の恋愛と結婚観について心が揺さぶられることになる。二十代の頃はいつも誰かが好きで、誰かと共に生涯を歩みたいと夢見ていた。しかし、結婚ということが現実の問題になりかかると、もっともらしい理由をつけては逃げ出していた。そして二十七歳の少し前、ある人の求婚に応じ、結局半年もたたぬうちに怖くなって、その婚約を一方的に破棄した。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。…私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです」この新約聖書、ローマ七章十五節以下のパウロの告白は、ゆきさんを打ちのめした。結婚しようと思ったのも、したくないと逃げたのも、自己の安住を求めていただけであったのだ。自分は愛したかったけれど、結局、誰一人として自分以上に愛せない。この先もずっとそうに違いないという思い至った時、ゆきさんは凍りつくような孤独を感じた。
「呼べばすぐに飛んで来てくれ、一日中そばにいて私だけを見つめ、私のことだけを心配し、この思いのすべてを理解してくれる人がなぜいないのか。男でも女でもいい。私の薄い皮膚をつき破り、私の二十四時間に入りきり、「よし、何もかもわかった。まかせておけ」と言ってくれる人がなぜいないのか! そんな、ないものねだりのだだっ子のようでした。もちろん、それは誰にも言えないことでした。誰にも応えられないことだからです」とゆきさんは言う。そして、クリスチャンとは、「正しい人」ではなく、神の前に白旗を差し出し、イエス・キリストの赦しと救いなしには生きられないことを、はっきりと認めた人間のことだと知り、イエス様を受け入れ、クリスチャンとなった。
 今、生きて行くには、様々な試練や葛藤があるが、自分の力ではなく、神が示す道を行く幸せをゆきさんは実感している。「楽観的な人間になりました。もともとの心配性はそのままですが、何か大きな問題が起こったときに、神様に、『今自分はこういう問題をかかえていて、こんな心境で、辛くて、どうしていいか分からない、心配でしょうがない』というお祈りをするのです。そうして行くと、今抱えている問題の解決が見えて来るのではなくて、神様がついているからいつか何とかなる、出口があったり、突破口が今ではないけど開かれて、それはもう用意されているから大丈夫だと思えるようになりました。子育てや、親の介護など、先が全く見えません。この苦しみがいつまで続くのか、この心配事がいつ解決するのか、分からないから心配なのです。でも、問題が解決しなくても、いつか神様がそれを良くしてくださる。良いものに変えてくださる。そう神様がおっしゃってくださっているのだから、今日の心配は今日だけで、先がわからないけどもう大丈夫、と安心して生きることができるようになりました」とゆきさんはキリスト教番組「ライフ・ライン」で語る。
 「ついに私は出会ったのです。呼べばすぐに飛んで来てくれ、私を守り、私を支え、誰にも言えない気持ちの隅々まで理解し、『何もかもわかっている。まかせておけ』と言ってくれる存在に。けれどもそれは人間―それぞれの孤独を生きるだけで精一杯の―ではなく、もっと強い、もっと確かな、私の生涯をしっかりと根底から支える、あたたかないのちの造り主だったのです」とゆきさんは著書『アメイジング・グレイス』(いのちのことば社)に記した。

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